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ENTROPYX説

2005/03/28

非広告型広告の力


今日書店でバイオブラジャケを発見。
いままで他のブランドのものを見掛けてはいたものの、いまひとつ貰う気がしなかったのだが、今回のは気に入ったのでちょっといただいてみた。帰宅して文庫本に装着してみたところ、これがなかなかすっきりしていてGoodな印象。

リバーシブルのそれは「バイオtypeT」のカラバリ2色、紺と茶(正式名:ミッドナイトブルーとバーガンディーブラウン)のどちらでもカバー可能だ。(上記画像はミッドナイトブルーバージョンの状態)

本に付けた時、背面に相当する位置にはバイオサイトのURLが小さい文字(7pt程度)で印字されているだけである。読めない広告とは一体なんじゃ?という気もしなくもないが、使用する側にとってはこのほうがありがたい。

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紙媒体の広告というものを考えた時、電車の吊広告や雑誌の広告は言ってみれば企業の押し付けみたいなものだが、ブラジャケの場合、そのブランドを支持する人がいるというメタ広告も同時に発信しているという点で、これは画期的なメディアなのではないだろうか!

・・・なんて具合に過大評価をしたら「所詮は射程範囲半径1mという極小アドバタイジング。バッグの中にしまい込んでいる時間のほうが多い文庫本の背表紙を広告媒体にしてどれだけ効果があるのか?」というネガティブな意見も出てくるだろう。

たしかにそうかもしれない。

しかし、私はさっき実際に作った「バイオブラジャケ本」を手にしてみてハッとさせられた。その半径1mという射程範囲の中に自分という人間が入っていたことに気付いたからである。

誰よりもまず、ブラジャケの使用者こそがその広告(ブランド)を一番目にすることになる。しかも(ここが肝心なのだが)本人はそれを自分に対する広告とは、これっぽっちも思ってないというトリック付きだ。

ブラジャケの使用者は、自分は「広告する」立場ではあっても、広告される側だとは思っていない。まさか自分に対する広告だとは思っていないのである。そこにこちら側の隙があった。ミイラ盗りのミイラとはこのことか。

彼ら(企業)にとっての広告の最終ターゲットはこの私なのだ。仮に私がこのカバー本をバッグにしまいこんだままだとしても、彼らは何も心配することはないだろう。わざわざ広告を持ち歩いてくれているのだから。

そしてもし人前でブラジャケ付きの本を読むことがあれば、使用者(私)はそのブランドに対して何らかの強い思いを抱かずにはいられまい。他者に対してそのブランドを肯定しまくっている自分がそこにいるのだから。

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とはいえ、ここでこうしてブラジャケの分析をしたつもりで得意になり、バイオブラジャケを文庫本に付けて喜ぶ私は何なのだ? 一番踊らされているのは私自身かもしれない。

すごい紙切れだ。

sim

2005/03/14

デバイススタイルのトースター

トースターを衝動買いしてしまった。
デバイススタイルのトースター。13000円也!
売り場には1000円以下の値段がついたものも陳列されていたので、その差10倍以上である。世界広しと言えども、たかが(失敬)パンを焼く道具に10000円以上も払う人間はそういないだろう。逆に、そんなものになぜお金を使うのだとツッコまれそうだ。

考えてみればiPod shuffleの512MBなら楽々買える値段である。これがもし利口な人ならiPod shuffleと1000円のトースター買って帰るだろうなぁ。私はバカな人間である。

しかし、これでいいのだ!もともとこれはプレゼントとして買ったのだから。(それならなおさらiPod shuffleのほうが喜ばれるだろうっていうツッコミも聞こえてきます。うーんそういう意見もありますか。汗 でもじつはあげる相手は家の人なのでパーソナルユースのiPodよりもリッチなトースターのほうがこちらが恩恵にあずかれるというメリットがあるのでした。それってプレゼントと言えるの?って責められたらいい訳の余地はありませんが。冷汗)

正直なところ家人へのプレゼントというのは全くの口実であって、単にこのトースターを私が使いたかっただけなのかもしれない。もっと言えば「使いたかった」というより「これが置いてある家に住んでみたかった」というほうが正確だろうか。

デバイススタイルは日本のメーカー(工場を持たないので正確にはファブレスメーカー)で、まだ新しい会社だ。数年前からパーソナルなワインクーラーで話題になっているので、聞いたことがある人は多いのではないだろうか。デバイススタイルを起業した社長は元ケンウッドの企画部に居られた方だというのも業界では有名な話になっているようだ。

デバイススタイルの製品デザインは秋田道夫氏の手による。秋田氏もかつてケンウッドでデザインをされていた人物だ。業界人以外の人はあまり耳にする機会のない名前かもしれないが、「名前ばかり表に出ているが全然大したことない某大御所デザイナー様」なんかよりよっぽど凄い人である。

と(余計なことも含め)いろいろ書いてしまったが、ここまでは前置きである。私がこのエントリーで紹介したかったのは以下に引用(ちょっと長すぎますが)させていただいた秋田氏による文章である。数日前にこの文章を読ませてもらった時、あまりの衝撃に言葉が出なかった。私がこのトースターを買って家に置きたかったのは、それを目にするたびにこの言葉を思い出したかったからでもある。


姿勢
かなり以前コラムに磯崎さんの言葉をかりて「大文字のプロダクトデザイン」 というお話を書いた事が有ります。
もう一度簡単におさらいすると「ささいな事を手がかりにデザインのヒントをえるのではなく、どうすることが人々のしあわせにつながるのか高いところから考えるようにしようではないですか」という意味です。
例えば、今から4年程前にあるインテリアショップで開催されたデザインコンペがありましたが、そこで受賞したソファーというかベンチがあったのですが なにが「デザインポイント」だったかといえば1メートル80センチぐらいの座の部分の片側に「丸い穴」が貫通しているのです。その30センチぐらいの丸い穴はなにをするかといえば、うつぶせに寝てその時穴を通して床においた雑誌 が読める。というまるで「とほほ」なアイディアが評価されて受賞していたわけです。審査のウエートの何分の一かが「アンケートの人気投票」だったのでわたしは審査員もアンケートした人たちもなにを考えているのかよくわからなかった。
べつの例えをすると、椅子があって「リモコンが良く無くなるからリモコン入れをひじ当てのところにポケット作りました。」とか、その昔流行った「カウチポテト(ソファーに寝そべってポテトチップを食べながらテレビを見ている様のことをそう呼んでいました)」の為のソファーを、デザインする時に「ポテトチップが湿気ない為に乾燥ボックスとコーラを冷やす為の小型冷蔵庫を手すりにビルトインしました。」(便利ですね確かにワインの栓抜きぐらいのポケットがあるのは有りかもしれません)とデザイナーが誇らし気に「コンセプト」を説明してもわたしは評価しない。ここに例として書いたぐらいなので自身考えられるけど「してはいけない」事だと私は思います。
「ライフスタイルデザイン」というのはスマートで矜持を持って生きる様を言うのであって「ずるずるしている様子」にアジャストすることではない。
自分でもそういう「だらしの楽ちん」な瞬間もあるけれど「好い事とは思わないプライド」は必要だと思っています。
「王様のアイディア」というお店があります。何年ぐらい続いているんでしょう。私が学生のころからあったように思いますが、さっき例えで出した「ゆるい生活をもっと便利にしましょう」というのをジョークをまじえて製品化していて景品やプレゼントにして「話のねた」になるのがコンセプトかと思います。 この「王様のアイディア」なのか「プロダクトデザイン」かという例えは私の 学生時代から引き合いに出されて「君のこのデザインは王様のアイディアだね」と評価されれば「もうちょっと深く人間を見ようね」と言われたようなも のである。
「3畳の下宿に住んでいてこたつの中に入ればほとんど生活用品が手が届いて しまうのですが一息手が長ければ完璧なんでマジックハンドを使うんですけれ ど、もっとかっこよくデザイン出来ないかと思って軽量化の為、継ぎ手にアルミパイプ、滑り止めにゴムを使用しました。」というのは王様のアイディア。
「先日駅のホームで手袋の片方を線路に落として、駅員さんに言ったらそこの柱にあった箱の中にマジックハンドがあって、線路の下に落ちた手袋を線路に降りないで取れるのを見て感謝の気持ちともっと軽量に女性でも使いやすいように改良してみました。」というのはプロダクトデザイン。
売り出されれば「同じデザイン」かもしれません。(業務用は高くなるのでマニアしか買わないでしょうが)でもねそこには「小文字」と「大文字」の違いがあるのです。
いつまでも「3畳」の生活を続けたいのならしょうがないですがそこから抜けたいしかりそめと思っているのなら「今のかたち」は不便な方がいい。そして抜け出したいと言う「モチベーション」を高めてほしい。
知り合いに「サーモマグのコーヒーメーカー欲しいんですが今の住んでいる状態ではちょっと買えないんです。」という人がいます。わたしはそれで良いと思っています。部屋をかたづけて(場所もこころも)きれいな状態の中にあのコーヒーメーカーが似合う環境を作りたい、と思って欲しい。まちがっても「寝そべってもコーヒーこぼさないで飲めるように出来無いですかね」というリクエストには答えたく無い(そういいつつもこぼしにくいデザインになってますが)。
わたしはプロのデザイナーまでもが「ぬるい生活の利便性」に手をかしているように思っているのですよ。学生と同じような6畳のアパートでこういう「びしっと叱る」ような文を書いているのもなんか不思議ですが。

Langage for form 「memo」2005.1.16の文章より引用


sim

2005/03/06

馬力(ウマリョク)

通常「馬力」と書いた場合は「バリキ」と読む。しかし、ここではモチベーション面やインセンティブ面に関する事柄を述べる為、敢えて「ウマリョク」と読み、「バリキ」とは区別してみたい。つまり、猫力なら「ネコリョク」犬力なら「イヌリョク」人間力なら「ニンゲンリョク」といった具合である。

尚、「トカチェフ」と混同して記憶してしまう人がいるかもしれないので、もしそうなりそうな場合は、馬力を「ウマヂカラ」と読み代えていただいても構わない。その他同様、猫力・犬力・人間力に関しても「〜ヂカラ」となる。ともあれ計量する単位の「〜リキ」と違った面を読み取っていただければ幸いである。

古来、馬と人との親密な関わり合いの中で、私が大雑把に思い浮かべるのは次のような事柄だ…

  • 移動する時に乗せてもらう
  • 農耕作業などを手伝ってもらう
  • 肉を料理して味わう
  • 生きたまま目を抜く
  • 目の前にニンジンを吊る
  • 念仏を聞いてもらう

…上記の項目で個人的に気になるのは二点、「目の前にニンジンを吊る」と「念仏を聞いてもらう」なのであるが、実際に試みられた例があるかどうかはさておき、馬力(ウマリョク)に対してどのような作用を及ぼすのであろうか。

人は、馬がすぐに食べてしまう事を期待して「目の前にニンジンを吊る」わけではない…この場合は馬にニンジンのみを着目させ、ニンジンのある方向へ馬を誘導せんが為である。一方で「念仏を聞いてもらう」のは、さして馬力への期待はなさそうだ…年期の入った坊さんなら、玄妙な声の念仏で馬を和ませてしまうかもしれないが、念仏の内容で馬力に働きかけようとするのは最初から想定の範囲外だったのであろう。

問題は「目の前にニンジンを吊る」事で果たして馬力が変容するのかどうか…ここで馬の身になって考えれば、何時まで経っても食べられない餌が目の前にブラ下がっているわけだが、食べられないと気付くか否や。

気付かない場合、食べようとして死ぬまで暴走する可能性も考えられなくはない…それ程人間との信頼関係が裏目に出てしまう事もあり得る。また冷静になって気付いた場合には、「人間に対して蹄を食らわす」「シニカルになる」「改めて協力関係を模索する」などの様々な可能性が考えられる…いや、いささか過ぎた擬人化かもしれないが。

翻って、人間力へ対して当然の如く求められるのが(馬にとってのニンジンの釣り糸に)「気付く」事、更には目と鼻の先の「餌を一旦保留する」といった大局的な立場はあるとしても、その「餌」がどのようにして手に入れられるかを模索し、手に入れた時点でどのような状態になっているかを、或る程度の予想や把握している必要がある…そして「改めて協力関係も少しは模索する」事である。

・・・・・・・・・・

私は恥ずかしながら、日本は意外と資源に恵まれてるなぁ、という認識にようやく達したのだが、行政やマスコミも含めて充分に健闘しているとは言えないのではなかろうか…他国の探りを入れられてから騒ぎ出すようでは国力(クニリョク)に疑問を持たれてもしかたないであろう。

日本の資源としては既に「ガス田、メタンハイドレート、石油、レアメタル、地熱」などが挙げられているが、その一つとしてメタンハイドレート開発現場の苦労は相当なものだろう、と思わせるページ*を読んだ。少々古いスレッドだが、現状と比べてどの程度進展があるかを振り返ってみたい人には参考になるかもしれない。(unknown氏の書き込みには、ただただ脱帽してしまう)

念仏からも遠ざかろうとしている我々日本人は(少なくとも私は)、馬力を嘲笑えるのかどうか怪しいところである。

*【科学】「燃える氷」の採取に成功。未来のエネルギー源に…オレゴン沖
http://news2.2ch.net/newsplus/kako/1032/10329/1032943131.html


kskr