.comment-link {margin-left:.6em;}
Send via SMS

ENTROPYX説

2005/06/23

プラネット・ホモ・サピエンス

人間の生活に飽きたからといって、明日から猫のなかまとして見てくれる人はいないだろう。その証拠に、明日コンビニエンスストアに立ち寄ってみるといい。店員にいくらニャーニャーとせがんで鳴いてみても、ペットフードはタダではくれない。

不思議なことに、どこに行っても人間扱いされ、いくら自分が猫であることを猫語で主張してみても、(いやクリンゴン人であればクリンゴン語で主張するかもしれないがいづれにせよ)唯一現存する地球内知的生命体であるヒト科ヒト属として認識されてしまう。

乗り物にタダ乗りしたり、棚に並べてある物品をレジに寄らずに持ち出したら、屋根がピカピカ光るクルマに乗ってやってきた人が、あなたをどこか知らない場所に連れてゆくだろう。

この狭い地球という、(宇宙に存在するといわれる2000億個の銀河の一つである)天の川銀河の中の2000億個もの恒星の一つである太陽の周りを周る惑星にヒト科ヒト属は住んでいる。

地上は単一の種ヒト属で溢れかえり、何百何千という電波は喜びや悲しみ、情報に乗り遅れないようにするための情報など、ありとあらゆるノイズを伝えている。

もはや己がヒトであることを忘れるほど、この場所はヒトとヒトの影響物が当たり前に存在している。逆にヒトの生活にウンザリしてみたところで、ここ以外に住む場所はないともいえる。

いつか人類は、地球の重力という卵の殻を破り、この揺籃の地を後にするだろうが、ここがただひとつの出発地点であったことを彼らは忘れないだろう。
いやたとえ忘れてしまったとしても、いつかまた自分達のルーツを探しに、彼らは再びここへ戻ってくるだろう。それが仮に荒れ果てた星になってしまっていたとしても。

---

Inspiration from Sound and Image

Image : GoogleMaps (Satelite版)

+BGV : EarthCam - TimesSquare


sim

2005/06/13

お金持ちの食卓


なにかが間違っている、と思う。

まずちょっとこの画像を見て欲しい。
日本の富豪として堂々40位まで登りつめたIT企業社長の食卓(兼デスク)だ。

ウぇ~!
これはどう見ても低賃金な弱小企業サラリーマンの寂しいランチタイムにしか見えないゾ。(寂しいは余分か)
まず、デスクまわりが汚すぎ。笑
古い冷蔵庫や年代モノのコピー機かなにか。散乱したいろんなもの。

ひょっとしてここは、ヒルズの中なんでしょうかねぇ。
あのハイテクタワーの中身がこれかぃ!
堀江社長はある意味で見得を張らない性格だから、平気でこういう画像を公開したりするのでしょうが、逆にかわいそうでもあります。

えーと、ここで私が「かわいそう」という言葉には、いろんな意味を含んでいます。
以下内訳です。


かわいそう1 --- 堀江社長本人がかわいそう
誰か近くの人、片付けてあげなよ。社長は忙しくて片付ける暇がないんだもの。

かわいそう2 --- これからお金持ちを目指す人がかわいそう
こういう現実を見させられては夢がなくなってしまいますよね。お金持ちになっても、(時間に追われて)こんな生活しかできないって思うと、ちょっと泣けてきます。

かわいそう3 --- 日本人みんな(私含む)がかわいそう
インターネットで公開されている画像ですよ。世界中の人が見るわけで、日本人は富豪でもこの程度の生活水準なのか?と思われてしまうのではないでしょうか。 みなさんいい迷惑だと思いませんか。


3番目は半分冗談ですが、世界からも注目されているお方なだけに、あながち全く有り得ない話でもないかもですよー。
まぁこれが、いまの日本の現実でもありますが。

「お金で買えないものはない」と豪語される堀江社長様へ。
買えないものはあると思いますよ。
それは「(お金で)買おうとしないもの」

画像公開元:livedoor 社長日記 6/6(月)

sim

2005/06/08

未来の響き

パソコンというものが普及したころから、それに影響を受けて大きく変化し始めた事象がある。
それは言葉の世界だ。
次から次へと新しい言葉は生まれ、常識となってゆく。
パソコンやメールやインターネットが身近な存在になるまでは、新しい言葉の出現頻度というものはそれほど頻繁ではなかった。流行や生活様式の変化に合わせて新しい言葉は緩やかに広まっていったが、それはまだ今から思えばずいぶんとゆっくりしたリズムで起こっていた。
今や小さな子供からお母さんまで、みんな普通のようにITワードを使って話している。ネット上に存在する新しいサービス名だって、知らなくては話にならないくらいだ。

そして、新しい言葉は新しい響きを持っている、と思う。
こんにち、新しい言葉そのものが当たり前の存在になりつつあり、それをとりたてて「新しい」と感じなくなってしまっているが、90年代半ばまでの、いわゆる非コンピューター時代の言葉の響きと比べると、そこには明らかに新鮮な響きというものがあるのではないか。

EPIC 2014 というFlashムービーを視聴すると、そんな気がしてくる。
Museum of Media Historyと題されたこの実話入りフィクション(フィクション入り実話ともいえる)にはAmazonやらGoogleなどとても身近なネット企業の名前が登場するが、あらためて流暢な英語のナレーションで耳にすると、それが十分に未来的で過去には無かった響きを持っていることに気付かされる。

このEPIC 2014についてはさまざまなサイトで議論されているが、それは概ね、そこに描かれたこれから先のビジョン(あるいは予測)についてである。
しかし私はこのセンス良く作られた8分間のムービーを、単なる予測プレゼンとして観ることは勿体無いと感じる。音楽、PV、あるいはイメージムービーのどれかに近いが、しかしどれにも当てはまらない。事実とフィクションの間、音楽と映像の間に存在する何か。

未来の歴史を第6の器官で感じ取ることができるとしたら、たとえばこんなムービーを観ている瞬間に起こるのかもしれない、と思ったりもする。

EPIC 2014 http://epic.chalksidewalk.com/
参考:「EPIC 2014」日本語訳

sim

2005/06/07

仏教の話

茂木健一郎クオリア日記をのぞいていたら、6/4のエントリーに僧侶の南直哉師との対談音声ファイルが(太っ腹にも無料で)公開されていたので、早速ダウンロードして聴いてみた。
130分にわたる長時間でありつつも、噛砕いた語り口の上、ユーモアを含めながら話す師の話に聴き入っていると、あっという間に時間が過ぎてしまった。
「南直哉×茂木健一郎対談」というお題になっていたが、茂木さんはホスト役、もしくは教えてもらう人という立場で、130分のうちのほとんどが南直哉師の熱弁にあてられた形になっている。

「人間という存在はもともと大したものではなく、この会場の誰かが死んだって、それをほんとに悲しむ人などそういない。1ヶ月もすればその人を知る人たちは皆元の生活に戻っているだろう。だから死んでしまうことも選択肢の一つなんです。でも仏教は生きるというほうに賭けることにした、それが前提なんです。」といったことを言われていて、愕然としつつも妙に納得したり。
また「天国に行くことを目標にするのではなく、世界の外に出る、あるいは完全に消え去ることを目標にしなさい、と仏教は教える。」という話にもビックリ。

しかし師の話を驚きつつも違和感無く聴けるというのは、普段とりたてて意識しないけれども私が紛れも無いブディストであることに起因するのだろう。自宅には仏壇もないし、線香をあげるのが年に何度もないけれども、おそらく思考の基本が仏教的なのだ。
仏教は限りなく宗教的でない宗教だと思うし、宗教の要素を取り除いた概念の部分(それが禅だと私は解釈しているが)をとても好ましくも思っている。
そして禅は科学の向こう側を見据えているような気がする。

日本人に生まれてきたことにデメリットばかり感じてしまう今日この頃だが、このようなお説教をネイティブな耳で享受できることを誇りに思ったりもする。
そして茂木さんに感謝!


朝日カルチャーセンター講座
「脳と癒し」第4回 2005年6月3日午後6時30分
於:朝日カルチャーセンター新宿
音声ファイル(118MB)
http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/lectures/jikisai20050603.MP3

茂木健一郎 クオリア日記 June 04, 2005
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/06/post_dff3.html
より


sim