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ENTROPYX説

2004/12/05

ある「移動」の繰り込み

前回の冒頭で考察しかけた「どこでもドア」だった訳だが、考えてみれば「ただのドア」に関しても何故ドアの形状をしているのかを、私自身理解してないようである…「どこでもドア」の考察までは、まだまだ延々たる道のりがある、と言わざるを得ない。

ドア(ただのドア)は、長らく日本で使われてなかったと個人的に認識していたが、大きな括りで「扉・開き戸」と考えれば、どこまで遡れるのであろうか。

私の浅い認識とは全く違い、考える家 :気配の住宅論 5.建具や、robin d. gill の フロイス問答場の記述によれば、日本でも「扉・開き戸」の方が古かったそうな。単に「引き戸」で殆どの開口部を占めてしまう時代が、あっただけのようである。

また或る本では「縄文以来の伝統的な住まい」として壁が無い(屋根が壁を兼用している)タイプの縦穴式住居のイラストが載っており、出入り口部分は「跳ね上げ式の板戸」になっている事が解る…これを開けたままにする場合は、木の棒で支えられてるだけ(支点部のディテールは描かれてない)の為に「扉・開き戸」というよりは「蓋」に近い印象である。確かに、この縄文時代まで遡ってしまえば、構造として複雑な「引き戸」は考え難くなってしまう。

イラストによる「跳ね上げ式の板戸」は、個人的にどこまで信憑性があるのか判断出来ないものの、それ以前に遡っても出入り口部の「(固めの材質による)扉」としては無いように思えた…恐らく、藁を編んだ暖簾状のものや、簾状の出入り口部があったとしても、推測の域を出ないのではなかろうか。


正直今度は「引き戸」がどうやって生まれたか、という事が気になるのだが一旦保留にするとして…実は、それ以前に私が気になってるのは「扉・開き戸」ですら無い。


「部屋」が片付かないのだ…もちろん棚も机上も片付かない。多分、私の一生は「部屋」の整理で終わるのではないかと思う。

驚くべき事ではない。これは「部屋」をどの様に考えるかによっても違ってくる。一般的に部屋と呼ばれる場所に於いても、ドアや引き戸の開口部を通過している時点で、いや、「何かを通過してる」という思い込みこそが、「部屋や場所概念」の前提の一つであろう。

もちろん「通過」でなくても「移動」は、している…もしかすると「移動」さえ思い込みかもしれないが、「移動」さえ出来れば「部屋・場所」の大きさ広さは、主観的にも客観的にも曖昧になり、無限小から無限大まで任意の値となるかもしれない。


私は結局の所「移動」である。少なくても「部屋・場所→物質」である。「部屋」を片付けてる時点で、「ある物質x」が「ある物質x'」を「移動」している事になると思われる。


しかし、「移動」に伴う作用反作用は、一体全体何に由来しているのであろうか。

kskr

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